日本語ラップと韻 その3:J-RAPにおける韻
「J-RAP」との差別化
〜すちゃだらだらした目では見えない世界〜
1996年7月7日、日比谷野外大音楽堂でさんピンCAMPが開催された。
日本語ラップ史において、いまだに語り草となっている伝説のイベントだ。
もう15年以上も前の出来事ではあるが、ビデオやDVDでも広く流通したこともあって、
映像からレポート記事までかなり多くの情報が残されており、当日の様子や熱気を窺い知ることが出来る。
しかし、その一週間後に同じく日比谷野外大音楽堂で行われていた大LBまつりについての情報はというと、
(LBにとっての大LBまつりが単なる一イベントに過ぎなかったとは言え)
さんピンCAMPのそれと比べると余りにも少ない。
それだけ日本語ラップシーンからは阻害されていたことの証拠だろう。
ここで、さんピンCAMP開催当時のシーンの概況について振り返っておきたい。
簡単にまとめると、さんピンCAMPや亜熱帯雨林に出演していたハードコア路線の派閥と、
TVなどのメディア露出が多くヒットチャートにも名を連ねていた
EAST ENDやスチャダラパーなどのポップ路線(=J-RAP)の派閥の二つに大別して語られる。
このハーコー(・アングラ) vs ポップ(・メジャー)の対立構造については
後に2000年前後にも大きな動きがあるのだが、
ヒップホップの文化的特性から考えれば必然中の必然とも言うべき事象なのでさして重要ではない。
本記事で取り上げるのは、もちろん韻についてだ。
96年前後に取り沙汰されたのが、J-RAP組の韻の「甘さ」についてだった。
J-RAPのリリックは韻ではなく駄洒落に過ぎないと揶揄され、
韻を踏んでいるラッパー=本物で、韻を踏んでいないラッパー=偽者であるといった理由から、
EAST ENDもスチャダラパーも「ラップかもしれないけれどHIPHOPではない」と言われるようになった。
ハーコー(・アングラ) vs ポップ(・メジャー)の対立は、
韻を踏んでいるか否かという切り口でも強く論じられていたのである。
たしかに、EAST ENDやスチャダラパーがブレイク時に発表していた作品は、
日本語を駆使したライミングというテクニック面よりも、
日常的で親しみやすい、明るくユーモラスなキャラクター性が目立っていた。
おそらくそのファンの多くは、韻に着目して魅了され、愛聴していた訳ではないだろう。
さらに、当時は発展の途上であったシーンもリスナーも幼く懐が狭かったため、
判断基準として韻を踏んでいるかどうかが占めるウェイトはあまりにも大きく、
GAKUやBOSEが口語体でスムーズにラップする巧みさをスキルとして受け入れる余裕はなかった。
韻を踏むことが容易ではなかったが故に、ちゃんと踏んでいるかどうか(だけ)で線引きが行われ、
ラッパーの優劣を判断する上でのかなり大きな基準になっていたのだ。
と今だからこそ書けるが、かく言う自分も当時はさんピン組の言い分にも大いに首肯した口である。
(ちなみに、EAST ENDもスチャダラパーも愛聴してはいた。とんだダブルスタンダード。)
今聴き直すと、LB周辺のアーティストの作品にも、素直に良いところを見つけることができる。
翻せば、それだけ当時は韻に対する緊張状態にあったともいえる。
この「韻ファシズム」はその後もしばらくシーンで大きな力を持ち、
90年代一杯は押韻こそが正義といった状況は続いていく。
【次回】
日本語ラップと韻 [余談]:日本固有の「押韻主義」スタイル
〜すちゃだらだらした目では見えない世界〜
1996年7月7日、日比谷野外大音楽堂でさんピンCAMPが開催された。
日本語ラップ史において、いまだに語り草となっている伝説のイベントだ。
もう15年以上も前の出来事ではあるが、ビデオやDVDでも広く流通したこともあって、
映像からレポート記事までかなり多くの情報が残されており、当日の様子や熱気を窺い知ることが出来る。
しかし、その一週間後に同じく日比谷野外大音楽堂で行われていた大LBまつりについての情報はというと、
(LBにとっての大LBまつりが単なる一イベントに過ぎなかったとは言え)
さんピンCAMPのそれと比べると余りにも少ない。
それだけ日本語ラップシーンからは阻害されていたことの証拠だろう。
ここで、さんピンCAMP開催当時のシーンの概況について振り返っておきたい。
簡単にまとめると、さんピンCAMPや亜熱帯雨林に出演していたハードコア路線の派閥と、
TVなどのメディア露出が多くヒットチャートにも名を連ねていた
EAST ENDやスチャダラパーなどのポップ路線(=J-RAP)の派閥の二つに大別して語られる。
このハーコー(・アングラ) vs ポップ(・メジャー)の対立構造については
後に2000年前後にも大きな動きがあるのだが、
ヒップホップの文化的特性から考えれば必然中の必然とも言うべき事象なのでさして重要ではない。
本記事で取り上げるのは、もちろん韻についてだ。
96年前後に取り沙汰されたのが、J-RAP組の韻の「甘さ」についてだった。
J-RAPのリリックは韻ではなく駄洒落に過ぎないと揶揄され、
韻を踏んでいるラッパー=本物で、韻を踏んでいないラッパー=偽者であるといった理由から、
EAST ENDもスチャダラパーも「ラップかもしれないけれどHIPHOPではない」と言われるようになった。
ハーコー(・アングラ) vs ポップ(・メジャー)の対立は、
韻を踏んでいるか否かという切り口でも強く論じられていたのである。
たしかに、EAST ENDやスチャダラパーがブレイク時に発表していた作品は、
日本語を駆使したライミングというテクニック面よりも、
日常的で親しみやすい、明るくユーモラスなキャラクター性が目立っていた。
おそらくそのファンの多くは、韻に着目して魅了され、愛聴していた訳ではないだろう。
さらに、当時は発展の途上であったシーンもリスナーも幼く懐が狭かったため、
判断基準として韻を踏んでいるかどうかが占めるウェイトはあまりにも大きく、
GAKUやBOSEが口語体でスムーズにラップする巧みさをスキルとして受け入れる余裕はなかった。
韻を踏むことが容易ではなかったが故に、ちゃんと踏んでいるかどうか(だけ)で線引きが行われ、
ラッパーの優劣を判断する上でのかなり大きな基準になっていたのだ。
と今だからこそ書けるが、かく言う自分も当時はさんピン組の言い分にも大いに首肯した口である。
(ちなみに、EAST ENDもスチャダラパーも愛聴してはいた。とんだダブルスタンダード。)
今聴き直すと、LB周辺のアーティストの作品にも、素直に良いところを見つけることができる。
翻せば、それだけ当時は韻に対する緊張状態にあったともいえる。
この「韻ファシズム」はその後もしばらくシーンで大きな力を持ち、
90年代一杯は押韻こそが正義といった状況は続いていく。
【次回】
日本語ラップと韻 [余談]:日本固有の「押韻主義」スタイル
by nihongo_rap
| 2013-04-17 21:20
| 日本語ラップと韻